奥院が當麻寺に建てられたのは今から650年前のことですが、當麻寺そのものの歴史は少なくとも1400年前の聖徳太子の時代に遡ります。
弘仁14年(西暦824年)中国から両界曼荼羅を伝えた弘法大師空海が、當麻曼陀羅を参籠すると、当時中院院主であった實弁和尚は三論宗を捨て真言宗に改宗してしまいます。以降、當麻寺は密教化を進めていきます。
▲當麻寺の本堂「曼陀羅堂」
平安時代末になると、この世の終わりであるとする末法思想が高まります。時代も呼応するかのように戦乱が各地でおこり、飢饉が頻発し、疫病が蔓延していました。人々は救いを求めていました。
當麻出身の恵心僧都源信が往生要集を書くと、阿弥陀仏の極楽浄土信仰は高まりを見せます。また恵心僧都源信は當麻寺で寛弘2年(西暦1005年)に迎講を行いました。迎講は人が臨終の時に極楽浄土から阿弥陀仏が菩薩衆を従え来迎に来る様子を演じたものです。恵心僧都は自ら考案した迎講を生まれ故郷の當麻寺に伝え、中将姫の往生と結びつけました。以降、毎年當麻寺では迎講が行われるようになり、練供養会式が形作られたのです。
それまでの仏教は貴族仏教と呼ばれるように、限られた人々の宗教になっていました。しかし、末法思想と阿弥陀仏信仰の高まりは、貴族仏教から民衆仏教へと少しずつ変化を生み出します。南無阿弥陀仏の念仏を称えることで救われると説いた法然上人が登場すると、日本の仏教は堰を切ったかのように民衆の仏教に変わりました。以降の當麻寺の歴史も當麻曼陀羅が中心となります。
法然の弟子である証空上人が當麻曼陀羅を研究し、模写を制作して多くの寺に奉納すると、中将姫の伝説とともに當麻曼陀羅は全国的に有名になりました。中将姫や當麻曼陀羅のことが様々な書物に記述され、中将姫物語が口伝えに語り継がれるようになり、後世の浄瑠璃や謡曲になっていきます。
當麻寺は極楽浄土信仰のメッカになったのです。
証空上人以降、當麻曼陀羅を拠り所に南無阿弥陀仏の念仏信仰が広がり、極楽浄土の聖地へと変貌していく當麻寺。多くの浄土宗系僧侶が訪れ、滞在するようにあります。當麻寺の様々なお堂から念佛の声が響き渡ったことでしょう。
▲浄土庭園の阿弥陀如来像
応安3年(西暦1370年)、京都の浄土宗総本山知恩院は南北朝時代の動乱を避ける為、後光厳天皇の勅許をもって知恩院本尊の法然上人像を遷座し、當麻寺の後方に奥院を開創しました。浄土宗の大和本山當麻寺奥院の誕生です。僧侶の修行道場でもあった奥院からは、数多くの高僧が輩出されました。當麻寺は大和における念佛信仰の中心地となったのです。それまで南都六宗や真言宗の影響が色濃く残っていた大和国に、新しい民衆の信仰、南無阿弥陀仏の信仰が広がり、以降奈良盆地では浄土宗に改宗する寺院や新しく建立される寺院が増え、現在奈良県内には300カ寺を超える浄土宗寺院があります。