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中将姫
戒名 中将法女大比丘尼
天平十九年八月十八日 奈良市誕生寺で生まれる。
“中将内侍”と命名
父 藤原豊成 祖父 武智麻呂 曾祖父 藤原鎌足
母 紫の前 (品沢親王の息女)
乳母 父の家臣 国岡将監の妻、瀬雲
中将姫 五歳 母 紫の前が他界
七歳 継母を迎える。橘諸公の御息女 照代の前
八歳 継母が男児出産、豊寿丸を溺愛して中将姫を邪魔者扱いをする。
九歳 御母、紫の前の報恩のために称讃浄土経を説く。継母に暗殺を企てられるが難を逃れる。
十歳 継母に毒殺を図られるが、誤って義弟(豊寿丸)が毒を飲み亡くなる。
十一歳 父 豊成は、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されるが、程なく都に帰ってくる。
十四歳 継母は執拗に暗殺を計画。家臣の計らいで、命を救われ、山中に篭もる生活を送る
十六歳 仏門に入る。霊峰二上山山麓の當麻寺へ参り尼となる。 法名 中将法如
十七歳 称讃浄土経一千巻を写経し、當麻寺の経蔵に納められる。
弥陀如来の極楽浄土を拝みたいと祈願し、本堂南側の部屋で終日夜通し念仏読経する。十七日目の日中に、老尼が現れ「百駄の蓮を集めなさい」と申され、天皇の力添えもあり、大和・河内・紀伊の三カ国から十九日二十日の二日間で集め、二十一日・二十二日には、老尼と中将法如と共に蓮の茎を折って糸をつむぎ、寺の北東の所に新しい井戸を掘らせてその糸を洗い、染められ傍にある桜の木にかけて乾かした。(今の石光寺)。その井戸を染井という。二十三日、若き織姫が現れ千手堂の西北 で一夜で織りあげ、忽然と姿を消す。老尼は「私は西方極楽浄土の教主阿弥陀如来である。お前のこの度の願いを聞きとどけるために来た。先に帰った織姫は、私の脇師の観音菩薩である。よいかな 今より十三年の後必ずお前を迎えに来る。それまで勉めて精進せよ」と申され西の空に向かって帰って行かれた。それからというもの、益々念仏を喜び御恩報謝の日々を送る。
二十八歳 今年限りの命を自覚し、母の二十五回忌にご遠忌法要を行う。往生の日が近づいてきたので、大曼陀羅を感得した話を一人でも多くの人に説く。
二十九歳 宝亀六年三月十四日、諸仏諸菩薩に見守られながら浄土へお帰りになる。
説法の言葉
どのような罪深い人間でも一度心から南無阿弥陀仏と名号を唱えさえすれば必ず往生が叶う。
“不思議な出来事でいっぱいの人生”
中将姫の両親は、 子宝に恵まれず、霊験あらたかな奈良の木元(このもと)明神に参詣。七日目の満願の夜、初瀬の寺(長谷寺)の観音に頼めというお告げに従って、十七日祈願、さらに二十七日祈願し、後の七日目の暁の夢中に、観音菩薩が現れ「お前たちのいずれかの寿命がなくなるが、それでもよいのなら、この白色の蓮華一茎を授けるから、それを我子と思って育てるが良い。しかしこの子が三歳の時、夫婦の内一人は必ず命が終わる。その時は我を恨んではならない」とお告げになり、程なく紫の前は、御懐妊し、中将姫が天平十九年八月十八日誕生した。この時、天皇の御夢に老僧が現れ「彼の横佩(よこはぎ)家に生まれてくる女子は、後の世の為のなる子であるから、その子に官名を許されよ」とお告げがあり、大納言藤原仲麿を遣わし“中将内侍”と官名を勅許され、中将姫と呼ばれる事になる。生誕される前から、不思議な物語に包まれた中将姫が二歳の時、乳母の膝からおりて西に向かって合掌され、初言に、「 初瀬寺救世のちかいを顕して 女人成仏今ぞ知らせん 」 と言われ周囲を驚かす。三歳になると、勢至菩薩が現れるようになり、親しく話をしている時は、中将姫は観世音菩薩の姿であったとか。四歳の春、白狐が一巻のお経(称讃浄土経)をくわえて中将姫の側に置いて以来、朝夕拝んで喜ばれた。
十四歳 龍田川の水かさが増し連日連夜川鳴りするのを、「 浪はよし龍田の川も音なくて天の皇の悩みやめてよ」と一首の歌を詠まれ川に投げ入れると、その夜から鳴動がピタリと止む。十六歳 仏門に入る。霊峰二上山山麓の當麻寺へ参り尼となる。
十七歳 當麻曼陀羅を織りあげる。
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